三島無産者診療所創設70周年記念
| 戦前からの民主医療運動を -三島無産者診療所の開設のころ- |
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三島無産者診療所は、1931年(S8)8月10日、当時の住所では「大阪府三島郡吹田町地下道筋」(現在の吹田市朗日町)に無産者医療運動の拠点として設立されました。この年は、日本が1929年(S4)の世界恐慌から抜け出すために、満鉄を爆破するという謀略を行い、侵略戦争(満州事変)に火をつけた年でもありました。 |
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| 町民のための実費診療所を政争の道具に −ビール派と川端派の争い− |
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| 当時の吹田町は、大日本ビール会社(今のアサヒビール、社長は高橋龍太郎で後に商工大臣となっている)からの税収が大きく、ビール会社が推薦する町会議員が増え、旧村推せんの議員との問でしばしば対立が起こしたが、いずれにしても、町議会では町民無視、ビール会社や地主の利益ばかりしか守っていいませんでした。 1924年(T13)に国鉄吹田駅がビール会社正門前から、東へ約200メートル移動し、現在の位置となったことが、ビール会社に都合が悪いとかで、町政はビール派(政友会)と川端派(民政党)に二分し、町民不在の中で暗闘へと発展していきました。ビール派には、行動的で弁の立つ人物か多く、松田病院の院長松田隆氏がその指導者でありました。 当時は、天皇制下であり、町民にはほとんど権利はなく、病気になっても医療費が高くて医者には、なかなかかかれず、たとえ病気をなおしてもらったとしおても、かえって薬代に苦しむという現状でした。医療は金儲けの手段となっており、大衆から離れた存在でした。このため日本のあちことで実費診療所の運動が起っており、川端派はこれをビール派首領の松円氏封じ込めのために利用し、吹田に実費診療所を建てようと言い出しました。町民の中では、これに貰成する者が多く、ビール派も正面切って反対できない勢いとなり、吹田での実費診療所設立問題が日程にあがることはあったが、政争の道具として取りあげられたため、実現にはいたりませんでした。 |
![]() 三島無産者診療所の開設 を呼びかけるポスター |
| 吹田の労働者・農民の闘い | |
| そのころ、吹田の民主勢力の側は、近村の山田村(現吹田市山田)で1922年(Tll)から6年もの問、日本農民組合指導の下に小作人の大争議が起り、日本郵舶の労働者が大部隊で山田に立ちとどまって支援したこともありました。これらの影響も受けて、吹田町でも十数名の新聞配達夫を中心にした無産者同盟のグループができており、また小作争議が二回程表面化し、ビール会社や国鉄でも組繊化が進んでいました。 1928年(S3)の3.15事件では、吹田から4人の犠牲者が出ましたが、その弾圧にも屈せず、5力所の友禅工場の約300人の労働者がストに入り、1930年(S5)には関西友禅労働組合の創立大会が山口席(芝居小屋、高浜町)で開かれ数百人が組織されました。この年の鍛治田工場の争議は、激烈を極め連日連夜吹田の各所でデモ行進が行われ、警官隊と衝突しました。この犠牲者救援のため赤色救援会が活動しました。 |
![]() 吹田町の小作争議(日出町市営住宅付近で、労働者農民の共同耕作風景) |
| 三島無産者診療所の創設 | |
| この組織は全協へと解消したが、残った労働運動の活動家や横田甚太郎氏(現相川病院名誉理事長)らによって、プロレタリア医療制度確立のための、日本無産者医療同盟が組織され、三島無産者診療所の設立となりました。現昭和町の「竹寅」の向い側の木造二階建の食堂跡が診療所となり、初代所長は加藤虎之助医師、書記は関西友禅労働組合の中井種一氏(名誉監事)看譲婦は中井文さん(現吹田市川園町在住中井氏夫人)、小倉より子さん(現大阪市住之江区在住)らでありました。 1932年(S7)地域の医療要求にこたえ歯科部を併設するため、200円募金がとりくまれ増改築を行いました。2階部分が歯科で同年5月から11月まで辻本春男歯科医師(元府歯租医師会会長)が担当されました。 |
![]() 加藤寅之助氏を囲んだ記念写真 |
| 加藤虎之助初代所長のこと | |
ここで 三島無産者診療所にとってかけがえのない人物のひとりとして加藤虎之助氏の生涯についてふれておきます。加藤氏は1905年(M38)静岡県下田市、当時の下田町弥治川の加藤家(関戸屋)の長男として生れ、豆陽中学(現下田北高校)、旧制静岡高校(現静岡大学)を経て京都帝大医学部を卒業。その年に、26歳の外租医として三島無産者診療所の初代所長となりました。中学5年生の夏休みに同級生と2人で、家族にも無断で満州行を決行したが大連で送り還されるというエピソードをもつ彼は勇敢な人で、妨害や弾圧と闘い働く人々の医療活動に徹し、夜は診察台で床をとったといわれています。途中、幹部候補生として豊岡の連隊へ入営することとなり、吹田の住民が加藤先生入隊反対の決議文を連隊長に出しましたが![]() 拒否されました。しかし彼は、入営中も反軍活動を強め、「日本国体の精華を言え」と尋ねられると「日本軍隊は強いです」とヤユし、軍旗祭の時などは野戦病院の横幕を張って全員その中に寝ていたといわれています。1933年(S8)除隊後、三島無診に復帰し献身的な活動が再開されました。しかし、1934年(S9)のはじめ、自転車で往診中に南高浜町の済生会の近くで倒れ、虫垂炎が手遅れになり阪大病院へ担ぎこまれましたが、貧乏人の医者だから三等の病室でよいと言い、1月9日、満29歳の若さで生涯を閉じました。遺体は現在の相川病院近くの河原で労農葬にふされ、デスマスクを平沢俊男氏と彫刻家・浅野孟府氏が作成、市営川面墓地に日活美術部長・小栗美二氏デザインによる墓がたてられました。その後今日も、毎年8月に相川病院の関係者によって墓拳が行われています。 |
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| 弾圧により三島無診閉鎖へ | |
| 1932年(S7)の5.15事件、1937年(S12)の2.26事件から7月7日の中国への侵略(日中戦争)の中で、三島無産者診療所の活動も、引き続く弾圧に抗して、加藤医師の遺志をついだ篠原一夫医師の協力で診療活動を続け、夜は小集会、演説会が行われ、1937年(S12)には吹田町議会に革新初の一議席を占める闘いが続けられました。 しかし、累積する債務のため医師を失い、さらに1938年(S13)9月15日の日本共産主義者団への弾圧で、最後の拠り所であった池沢歯科(池沢一雄歯科医師は2日後の9月17日に検挙される)までが閉鎖となってしまいました。 |
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| 三島無産者診療所の跡地に記念碑 | |
| 三島無産者診療所跡の建物はその後、向って右側部分が畳屋となり、左側部分が印刷場、また戦後はパン屋喫茶店へと変遷しました。そして1979年(S54)革新吹田市政が、住民本位で民主的な街づくりの一つとして、大きな力を注いだ国鉄吹田駅前市街地再開発事業の区域内に入り、木造二階建は撤去されました。現在、その地は、市道佐井寺・片山・高浜線の道路の一部となっており、三島無産者診療所の跡地を示す記念碑が郭日町「さんくす2番舘」東側の歩道に、診療所閉鎖から42年後の、1980年(S55)11月、伝統を引き継く相川病院によって建立されました。 |
![]() 1980年11月に建立された記念碑 |
| 戦後編は現在作成中です。しばらくお待ちください。 | |